「坂道のアポロン」の臨場感の話
私は長崎がとても好きだ。
初めて行ったのが高校の修学旅行で、そこから街の持つ多様な異国感がとても好きだ。
あまりにも好きが募りすぎて、大学の卒業旅行でも、周囲が海外に飛ぶなか春松竹の合間に長崎にみっちり三泊した過去がある。帰りの空港で友人に「帰りたくない、長崎の猫になりたい」と駄々をこね、冷ややかな眼差しを向けられたことも記憶している。
さて私は先日、久々の一人映画を堪能してきた。作品は「坂道のアポロン」。制作が公表された段階から「絶対に好き」と思い、見たい映画リスト入りさせていたのだが、公開早々に足を運んだのはやはり先日のJr.祭りの余韻が残っているからだと思う。あの三木監督に撮られる松村北斗って絶対いいよな、という軽率さ。いいんだ、軽率こそオタクの素質。
まず言う。これは映画館の音響の元で観るべき映画です。
各演奏シーンの感動、特に文化祭でのセッションの迫力と熱量はまるでライブのような臨場感。
素直に飾らないむき出しのセッションがとてつもなくかっこいい。
これを映画館の良質な音響の下で観なかったら後悔すると思う。
出演者の方々の瑞々しさと強い眼光がまた魅力的でもあります。
主な出演者は高校生チームと大学生チームの大きく二つ。
それぞれの感性の差異が物語のカギを担うと私は思っていて、どちらも意思の強い眼差しには違いないのだけれど、向ける対象や方向性などの差異があって、そこに言いようのない「年齢差」や「成熟の差」が感じられます。いやあ、俳優さんてすごい。
鑑賞後に色々な方々の感想を眺めていて気付いたのは、しっかりと明言はされていない「戦争の影」という部分。主要メンバーの千太郎が在日米軍の二世という役であるだけでなく、随所にさらりとさも当たり前かのようにちりばめられたそれらが、10代独特のもの悲しさに拍車をかけているように思う。実際に長崎に訪れたときにも感じたことだが、遠方から「平和学習」と称してそれこそ「修学旅行」する他府県の者とは違い、現地の人々にとってそれらの「戦争の影」というものはあくまでも「日常にある悲しみ」のひとつであって、いい意味でそれらが過去のものではない、風化されていない雰囲気がある。そのある種の臨場感が、確かに作品のなかにはあった。
時代背景が60年代であること、舞台が長崎であること、学生運動に参加しているキーパーソンがいること、そして「ジャズ」がそれらを繋いでいること。わざと見えないように忍ばせているのではなく「当たり前に戦争の影はそこに存在している」という部分があるからこそ、自由に生きる選択をする葛藤や悩み、そして強さが引き立っているのではと思った。なんと偉そうな文面。でもどことなく感じていた「言いようのないやるせなさ」「言い尽くしがたい虚無感」という空気感はきっと、ただよう「戦争の影」からくるものが大きいのだと思う。そしてそれをぶち壊すようなジャズセッションがより清々しい。最高。
想像していたよりもはるかに素敵な作品で、劇中の音楽を調べて突発的に無限ループするという副作用に悩まされている。そしてこれを書きながら二度目の鑑賞に行くかどうか悩んでいたりもする。ジャニオタなので同じ公演に何度も通うことに一切のためらいもない私は「一公演二千円切って自由に場所が選べる完全指定席って安すぎでは…」と思い始めた。文字に起こすと確かにそうだ、安い、安すぎる。
なんやかんや言いましたが、「坂道のアポロン」とても懐かしく、素敵な映画です。
あのセッションを是非体感してもらいたい。
あと、それから、長崎と雨の親和性が最高です。
あのシーンで土砂降り、ベタかもしれない、でも長崎なら大丈夫。
そのあとの雨上がりのシーンも好きです。
答え合わせはぜひ劇場で。