そして僕を手放さずにいて

アイドルオタクのときめき備忘録

映画「娼年」を観て考えた様々な「寄り添う」ということ

日夜を問わず部屋の中の四角く切り取られた画面から垂れ流しになる報道に辟易としていた。

 

幼いころから思春期を経て、成人になってからも、所謂「性行為」であるとか「異性間交流」というものに関して、厳しく育てられてきたと思う。実際私自身もそれらに関して決して積極的ではない。まだまだ幼いころはそれらに対して嫌悪感すら抱くこともあったし、実際にそういう感情を剥き出しにされると、熱を帯びるどころか急激に冷めることすらあった。

 

人の心はとても繊細であることなど、それは生きていたら自分自身の心を持って痛感してるはずなのに、大人になればなるほどそれを隠すのがうまくなる。繊細であることは「多くの他者」と生きていくときに足枷になる。社会の中で人は繊細であっても強靭でなくてはならず、それらの両立は故意には難しい。「繊細でないつもり」で「強靭なつもり」で己を隠している人は多いと思う。それは言わば鎧のようなもので、実際の心にあるものはみな平等に繊細なまま。鎧を身にまとっていようとも、急所をつけば命はない。そんな当たり前のことを、いつの間にか忘れ去られているような気がしている。

 

SNSの普及によって世界中の女性の声が大衆に響くようになった。「me too」の風潮はもっと広く浸透していくといいなと思っている。

それに伴い露呈してきた数々の性に関する言動に対し、なんと愚かで浅はかで忌々しく、なぜこれまで見過ごされていたのかと腹立たしくなる。けれど半面飽きずに連日連夜「悪しき性に関する報道」が続くのは悲しい。これまでの膿の排出ならまだしも、同じ話題をガムのように味がなくなるまで噛み続けているようで、見ているこちらとしては「性」というものに対しての嫌悪感を植え付けられているような気さえする。

 

そんな中、友人の勧めで「娼年」という映画を観てきた。

娼夫となった主人公が性行為をするなかで次第に「人に寄り添うこと」を身に着けていくのだが、 現代における「性行為とはなんなのか」ということを改めて考える映画だと私は思う。娼夫は犯罪行為だのなんだのという声は「映画」として考えた際には取るに足らない議論なので割愛。更に原作があるとはいえ公開中なのであまり内容には触れない。

 

本編のなかで主演の松坂桃李さんが娼夫として出会ったどの女性に対しても、優しく穏やかに接し思いやる描写がある。必ずきちんと目を見て会話し、相手の話を聞いたうえで自分の意見を述べるし、必ず名前を呼ぶ。「商売なんだから」と言われたら終わりだが、連日のように「同意も思いやりも何もない女性を見下したような性的な事例」がそれはそれは溢れかえるなかにいる女性としては、例え商売だろうと前者の方が美しいと思う。そう、そもそも性行為とはただの生殖行為ではなくて、「愛し合う恋人同士が心身ともに寄り添うための行為」であるべきなんですよね。「心の痛いところを探し当てて寄り添う」というようなセリフ(肝心なところでうろ覚え)があったように、身にまとっている衣類と心の鎧をひとつずつ外し、それはそれは繊細な「心と体」に寄り添うことが本来のあるべき「性行為」の姿だと改めて考えなおす作品でした。

 

「同意があった上で相手の痛みに寄り添い満たす性行為と、同意も思いやりも何もない相手を見下したような性行為と、どちらが正当か」と尋ねたらきっとだれも間違うことはないのに、何故よりによって幾重にも鎧を重ねてきた「大人たち」はそれに気が付かないのか不思議でならない。鎧を重ねるうちに内包されたものの繊細さに気づけなくなるのなら、私は鎧なんていらない。それに鎧など身に着けなくても誰かと寄り添うことができたなら、きっと私はそれがなくても強くなれる。

 

ここまで書き連ねてきて、ようやく気づいたことがある。そもそも「SNSがあるから」女性の声が強くなったわけじゃない。もともと女性にだって声はあったはずだ。女性自体が強くなった上でSNSというツールを手にしたから、更にその声を見聞きし真摯に受け止められる男性もいるから、ここまで世界中で問題視されるようになったんだと思う。

多くの人がツールの発達にばかり言及するけれど、女性も男性も時代の流れなのかなんなのか、性に関する認識においてだんだんと寄り添えるようになっているからこそのこの風潮なんだと思う。声があがり事態が認識され、「悪がなんなのか」という認識を社会として人として寄り添いあうことが今のこの世界的な風潮であって、そこにビジネス的な云々かんぬんは必要ないはず。多様化の中でそんな時代錯誤は「古の国・日本」においても浮き始めているのかもしれない。