そして僕を手放さずにいて

アイドルオタクのときめき備忘録

そう、それは呼吸をするように。〜映画「カランコエの花」を観て

人ってきっと、呼吸をするように、誰かを好きになって、たまらなく幸せな気持ちになるんだと、幼い頃は思っていた。

世間で言う「大人」になるにつれて、それがなんと難しいことなのかと思うようになった。家族だけでなく同僚や上司、友人同士でも話題になる「結婚」のワードに頭を悩ませる時期もあるし、でもその反面「結婚って本当にしなければならないのか?」と思う自分もいる。

「この年齢で」「彼氏がいない」私は「女性芸能人が好き」だからと職場で「冗談として」「そっちの気がある」とからかわれる。ここで波風を立てないためには笑って「違いますよぉ〜!」と言うのが正解。でも心の中で私は言う。「だったらなんだ」「てめぇには関係ねぇだろ」と。あらまぁお口が悪い!

 

「だったらなんなんだ」と言うのがLGBTに対しての私の感覚で、世間がやんや言うのを見ながら「別にそういう人なんやなぁ、としか私は思わんけどなぁ」と思っていた。確かにセクシャリティがストレートの人との恋愛では齟齬があるかもしれないが、私の中では「ストレート同士だろうと両想いになるのは奇跡やろ」という感覚なので、別にそうなんやなぁ、としか思わなかったりする。

 

女子大女子寮暮らしで4年間過ごした上に浮いた話が少ししかなかった私は、あるとき母から夏休みに正座で改まって言われたことがある。「あなたの恋愛対象は女性か?」と。テレビを見ていたときにふと言われたので、咄嗟に笑いながら「違うよ」と答えたのだが、母は表情を崩さずに「真面目に話をしているの」と一蹴した。私は驚きながら改めて否定をした。でも今なら分かる、母は受け入れる覚悟をしていたんだと。

 

映画「カランコエの花」を観てきた。今まさに、帰り道の電車でこれを綴っている。とってもみずみずしくて、儚くて、飾り気がなくて身体に染みていくような映画だった。観ながら「自分も当事者である」ということを自然と考えた。私が女性であるということと同様に、現在「LGBT」とひとくくりにされているひとたちは当たり前に存在しているということ。自分も「当事者」であることを、きっと私たちは忘れてその話題に関して過剰に敏感になっている。と私は思う。

 

私は「受け入れられない側」の感覚がおそらく元からあまりないので「受け入れる」というよりかは「認識する」くらいの感覚で生活していて、もっとそれくらいライトに感じてもいいものなんじゃないのかな、なんて思うんですよね。「あああの子は彼が好きなんだ」というのと同じ感覚なんだけれど、伝わるのか否か。

 

監督さんのトークショーも運良く参加できて、その中で印象的だったのは「センシティブだと敬遠するのは拒絶するのと同じ」(だいぶ意訳)という話で、この言葉は私が普段抱いている感覚をすっと言葉にして飲み下してくれた気がしてとっても好き。そう、だからどこかで考えなきゃいけないし、敬遠するこたぁないし、考えるきっかけというか、そういう大袈裟なことでなくて、せめて「LGBTって敬遠することではなくて自分も当事者なんだなぁ」という感覚だけでも、この映画を通して考えてみて欲しい。

 

「みんなが生きやすく」という監督さんの言葉は本当で、考え方や生き方が多様化し始めている今だからこそ、考える、感覚を養う、実りのある作品です。どの人たちも素直で純粋で、でも捉え方が違って、だからこそするっと自分のなかに取り込まれて行く、不思議な感覚の作品です。揺れるバスのシーンと、ラストの音声シーンが私は大好きで、胸が締め付けられる感覚でした。私も誰かを好きになりたいと、今では素直な気持ちで思います。