そして僕を手放さずにいて

アイドルオタクのときめき備忘録

「二列目センター」〜中心に在るということ〜

推しがグループを卒業する月になった。

今年の年末特番で推しの姿が見られないなんて、卒業が発表されるまで微塵も思っていなかった。

推しの卒業発表の直前に次回シングルの選抜発表があり、突然の「二列目センター」の立ち位置に一瞬「あれ?」と違和感を覚えたものの、彼女の実力はなにより私がよく知っているし、自分で自分を納得させていた。

 

若月佑美さんは、とてもまじめで不器用で、とてもまっすぐこちらと対峙してくれる。卒業特集が組まれた雑誌でも、同期はもちろん後輩たちも口を揃えてその人柄を称賛している。

それは数回しか握手会に行けていない私に対してもいつだってそうで、不思議と若ちゃんと目を合わせていると、するすると言葉が湧き出てくる。いつだって私の言葉を引き出してくれるし、いつだって自分の言葉を返してくれる。素直になれる推しという感覚が私にとって一番しっくり来る表現だったりする。たくさんいるファンのなかの、ほんの数回しか言葉を交わせていないしがない一人なのだけど、それでも私はそう思っていて、それが若ちゃんの魅力だなと思っている。

 

私は推しの「最後」に弱い。強い人などいないだろうが、とにかく弱い。

担当の退所前最後の公演に行けなかったこともずっと後悔しているし、オタク人生でひとつだけ過去の公演が観られるなら、絶対にその公演に行きたいと今でも思っている。そうしたらまだ今より推しの最後に強くなれたと思う。

今の担当の福ちゃんも「これが最後の仕事だと思ってやり切ったら次の仕事が来て、の繰り返し」とラジオで「最後」をリアルに考えたことをほのめかしていたし、今回若ちゃんも雑誌のインタビューで「周りの人たちにはギリギリまで言いたくなかった。きっと最後だからって、気を使わせるから(意訳)」と答えている。

 

担当や推しの口から出る「最後」という言葉は、ふとしたときにひやりと私の背中を撫でる。突然「もう見ることすらできない」状態に陥った経験がフラッシュバックする。その時期によく読んでいた本がある。

 

たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、その人には、たぶん、号泣する準備ができていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。

 

江國香織「号泣する準備はできていた」より

 

とてもシンプルに感情と関係性とを言い得た言葉なのだけど、私はこの文章がとてもとても好きで、本編よりもこのあとがきの方を読み込んでいる。「確かにここにあったと疑いもなく思える心持ち」という言葉に、担当が姿を消したあの頃の私は、どれだけ救われただろう。あの頃の経験があって以降、自分の中で「オタ活のスタンス」の中心となる言葉になった。

 

今年いっぱいで私の大好きな乃木坂46から、大好きな推しの若月佑美さんと、乃木坂46を好きになるきっかけとなったいちばん最初の推しの西野七瀬さんが卒業をする。その後推しのいなくなったグループとどう接していくのかはわからない。けれど私の大好きな人たちが、確かにそこに存在したということを、私は知っている。色々な媒体で推しの卒業を目の当たりにするたびに泣いてしまうけれど、それでも私は彼女がそこにいたこと、グループを離れたあともその存在を目撃できるということを、しっかりと認識したいと思う。

 

それにしても今週末発表の卒業セレモニーの当落がとてもとても気になってそわそわしている。そわそわしているのでこれを書いている。シンプルにステージに立つ推しが観たい。でも卒業を目の当たりにするのが怖い。当たったら行くし、当たらなかったらスッパリ諦める。それだけ決めてそわそわしている。

 

でも私の女性アイドルの歴代の推したちは、卒業してからの方が推していて楽しい。若ちゃんのこれからの活動もきっとそうなるだろうとわくわくしている自分もいる。寂しいのも事実、わくわくしているのも事実だ。

 

だからきっと女性アイドルが所属グループから次のステージにひとり立ちすることを「卒業」って言うんだと思う。未来が楽しみだけど、切なくて、とても寂しい。この感情は、卒業式のあと、人が疎らな校舎で感じたことがある。あと少し、この感情を泳いでおきたい。「号泣する準備はできていた」今まさに、その時だと思う。