映画「閉鎖病棟ーそれぞれの朝ー」を朝に観た話
師走の忙しない京都駅で、深く息を吸った。吐いた息は白く、鼻腔はひんやりとかさついた。紛れもなく冬だ。
映画「閉鎖病棟ーそれぞれの朝ー」を公開終了間際に駆け込みで観てきた。
公開をとても楽しみにしていたのに、私が何故か公開日をきっかり1ヶ月勘違いしていたので、終了直前、朝8時台からの上演にそれこそ駆け込んだ。
朝8時台から冒頭のシーンはなんともヘビーだった。一瞬怯んだ。「やばい。寝起きで観るものじゃなかったかも」と思いながら物語は進んでいった。
「事情をかかえてない人間なんていない」
綾野剛さんの柔らかい声が鑑賞後も残っていて、私の中の怒りや苦しみや悲しみまでも、その声に包容されていった。
「狂っているのは果たして誰なのか」
「真っ当とはなんなのか」
「本当の幸福とはなんなのか」
「罰せられるべきはなんなのか」
答えのない憤りを、かさついた指先でスマホを操作しながら考えていた。
きっと「狂気」はどの人間も等しく抱えていて、そのリミッターはそれぞれ異なっている。リミッターのものさしは他者の眼差しへの敏感さかもしれないし、愛する人の裏切りかもしれない。目には見えずリミッターの予見がつかないから、放たれた狂気に恐れをなし、きっと人々は「閉鎖病棟」とそれに伴う蔑視が生まれたのだと思う。場所の分断に伴って明らかな「区別」が生まれ、それは知らないうちに「差別」となっていく。
「それ」に気付くか気付かないか、理解できるかできないか?自分自身に、そして社会全体に投げかけられた重くて明確な答えのない問題だと思った。
「それ」とは「区別なのか差別なのか」でもあるし「狂気の所在」でもあるし、大元である「善悪」や「狂気」の本質でもある。
私自身も狂気とも取れる感情を内包していることもある。その内包している感情を、他者に恐れられないように、この先ずっと爆発させることなく、隠しておけるかと聞かれればすぐには頷けない。
それなのに自身のなかに「コントロールできないほどの感情を持つ」部分があることを、多くの時間忘れて平気な顔で生きている。それはきっと私だけではないはずだ。
みんな等しく感情があり、その起伏があり、リミッターがある。なにかの拍子にコントロールが効かなくなることだってあるし、休むことが必要な時期もある。だけどそれだけじゃなくてみんな等しく立ち直る権利がある。そんな当たり前のことを、どれだけ長い間忘れていたのだろう。いや、考えずにいたんだろう。
私はこの映画を観た直後に気のおけない友人に勧めた。かつて私がそうだったように、彼女も今、社会的に休憩時間を取っている。
方向性は違えど、かつて精神的にかなり弱っていたことのある私は、映画の中の描写に度々心臓を掴まれたような気持ちになった。薄く靄がかかったかのような色褪せた景色、妙にざらついた感触のする空気、静寂が寧ろ騒々しく感じる瞬間。
それでも時が経ち、環境が変わるにつれてその感覚が薄らいでいった。立つという感覚が湧き歩き出せそうな気がしていた。
今はもうその社会的休憩時間を笑って話せるようになった。だから私は社会的休憩時間を要している周囲の人たちに、いつでも手を差し伸べられるような自分でいたいと思う。
善悪だけで分けられることができたなら、どれだけ楽なのか。善悪だけで分けられないから、私たちはずっと悩んで苦しんで生きている。
大事なのはそれらを認識して生きていくことなのではと、改めて思うようになった。
映画館の入っている建物から出ると、外はもう昼時だった。青空が痛いほど澄んでいた。お腹が空いていた。私は生きている。