そして僕を手放さずにいて

アイドルオタクのときめき備忘録

狐と狸、確かさと不確かさ〜映画「嵐電」を観た〜

私が毎日乗る電車は、住宅地を抜けて走る。

大概はこれといった大きなホームがなく、無人駅で、ちょっとだけ寂しい。家なのか、道なのか、線路なのか。境目が分からなくなる。

境目がわからないまま電車に乗ると、晴れた日には多くの家が布団を干しているのが分かる。そこに人々の営みがあると感じる。確かに人が暮らしている。

 

今年最初の休日に、映画初めということで、映画「嵐電」を観てきた。

映画『嵐電』 公式サイト

京都凱旋上映、前回の上映期間中はスケジュールが合わず、泣く泣く見送ることとなった。ほぼ毎日乗る嵐電のホームで、当然ほぼ毎日見ていたポスターがきっかけだった。

 

感想としては「なんかよくわからなかった」なのだけど、意図して作られた「なんかよくわからない」映画だと思った。この文章がなんかよくわからない気もするけれど。

 

嵐電にまつわる不思議な話」を軸に色々な人たちが嵐電に乗って交差して関わったり関わらなかったりして。観ている途中で「え?どれが本当なの?」と混乱したり「不思議な話って夢なの?」と元も子もないことを考えたり。

でも観賞後に色々と考えてみたけれど、それって別に「不思議な話」や「迷信」がなくても、全部「そう」なんだよなぁ、と。

今自分が現実だと認識しているものたちも、見方を変えたら夢のようなもので。節目のたびに自分の立つ場所を確かめて、自分がどこにいるのか何を考え何を感じているのか、そういったことを確認して、認識しているだけで、本当はきっと定かではない。足元は朧げで揺らいでいる。

 

映画を観てから、どれが本当なのか色々考えたけれど答えが出ない。でもそれはきちんと観ていなかったからではなくて、きっとどれも本当であって、どれも本当ではないからで、正解なんてきっとないんだろうと思う。どのシーンのどの人物の気持ちも、共感…いや、身に覚えがある。人ってそれくらい揺らぎがあって不確かなものだ。

 

そしてまた今日も私は嵐電に乗った。

駅に到着するたびに「あのシーンだな」と口元が緩む。今日もいつも通りの車内だった。でもきっと忘れたころに、狐と狸はやってくる。そのとき私は誰と居るのだろう。