そして僕を手放さずにいて

アイドルオタクのときめき備忘録

せめて生きていて欲しいという願いのようなもの

今年に入ってから、何回考えただろう。

未知の疫病に戦々恐々としていた自粛期間からずっと「生きていくこと」について、数え切れないほど考えてきた。

 

そして今年に入ってから、何回願っただろう。

大切な人たちが、大好きな人たちが、せめて生きていて欲しいと、何回願ったことだろう。

 

 

私がこれを書いているのは、まるで絵馬を書くような、七夕飾りのような、そういった類で。直接本人に伝えるにはあまりに重く、けれど誰かに「私は確かにそう思っていた」と分かっていて欲しい、それは未来の自分でもいいし、巡り巡ってたまたま読んでいるどこかの誰かでもいい。そんな意思表示のようなものです。

 

私は歌って踊ってステージに立つアイドルが大好きで、そして舞台で演技をする人たちのことも大好きだ。その存在自体にどれだけ救われてきたか分からないし、そこで出会った人や物事で得た沢山の財産がある。

それは現在進行形で、結果的に学生時代よりも長くなったし、もちろん社会人経験よりも長い。

 

だからこそ、立て続く訃報がその度に冷たく私の背筋をそろりと撫で上げる。

 

どうか、どうか、せめて生きていて欲しいのです。

 

確かにステージに立ち、カメラの前に立つあなたを好きになったのだけれど、その場に立っているから好きなわけではなくて。

もし辛くて、しんどくて、生きることを辞めたくなったのなら、いっそステージに立つことを辞めてくれたっていい。それでどこかで笑っていてくれるのなら、それでいい。せめて、生きていて欲しいのです。

 

私一人でさえ、どれだけ幸せにしてもらったか、どれだけの得難い経験を与えてもらったか、計り知れないのだから、きっと与えてきた幸せはもっともっとたくさんある。だからどうか、信じられないくらい幸せになって欲しい。自分の幸せを自分で決めて、信じられないくらい幸せになって欲しい。そう、思ってしまうのです。

 

 

だけどその反面、漠然と死に吸い込まれたいと思っていた時期があるので、なんとなく「ああ、吸い込まれたのか」と思ってしまった私もいる。渦中に居ると温かい言葉ほど届かず、冷たい言葉ほど深くに刺さる。私は自分の呼吸音にすら苛立ち、空腹は身体が生きたがっているようで憎らしかった。「今日」がいつまで経っても終わらず、何度絶望したことか。

 

無力だ、と思う。でも無駄ではないと思う。

あれから環境をガラリと変えて今は毎日楽しく笑って暮らしていて、心なしか精神的な許容範囲も広くなった。

今だから当時の自分を客観視できるし、今だから当時の自分にとってのストレスも客観視できる。今だったらもっと上手くできるだろうとも思う。でも今の自分は決して当時の環境下では存在していなかっただろうし、ひとつの成長材料として「当時はご迷惑をおかけしました」と感謝すらしている。それでいいのだと思う。その時分かり合えなくたって、いいのだと思う。そうやって迷惑をかけながら大人になって、いずれ誰かに迷惑をかけられる側になっていく。それでいいのだと思う。

 

大半の場合、そこに悪意は無い気がする。意志を持っている以上、そこに主張はあって当然のことだ。

平気で誹謗中傷ができる人は、自分がそれをしているとは気づいておらず、むしろ「自分は正論を述べている」と思っている気がする。途中で我に帰ることもあるかもしれないけれど、そうじゃないことの方が多いと思う。

 

だからこそ、難しいなと思う。

でも自分だけでも気付いて、考えて行かないとならないなと思う。大抵の「悪いこと」は「気付かず、考えず」に起こっていると思うから。

今抱えている自分の発言は「主張」なのか「裁き」なのか自分で見極めることが、今後のメディアリテラシーで必要なことではないかと、そう私のなかでひとつの結論となった。

 

それでも、自分は無力だと思う。

無力だけれど、私は他の人よりもたくさん言葉を紡いでしまう人間なので、たくさんの愛の言葉であるように生きていこうと思う。

 

私の大好きな、愛されるべき人たち。

私の周りの大切な、愛すべき人たち。

逃げたっていい、せめて生きていておくれ。

生きる意味を自分で見出せない時だって来るかもしれない。そのときのために私はたくさん、あなたに生きていて欲しい理由を投げかけておくから、たったひとつでいい、拾って欲しい。そしてせめて、生きていて欲しい。

 

「自分の幸せは自分で決めて、信じられないくらい幸せになって欲しい」という私の本心すら「生きることを辞めることが幸せ」と認識している人からすれば呪いなのかもしれない。だけどそれでも、私は「生きていて欲しいな」と思ってしまうのです。