そして僕を手放さずにいて

アイドルオタクのときめき備忘録

「私が生きていくこと」って「周りの人たちと生きていくこと」だという話〜映画「梅切らぬバカ」を観て〜

生きている以上、何かを成し遂げなければならない、命を燃やして夢を実現せねばならない。きちんと誰にも迷惑をかけずに、真っ当に生きなければならない。心のどこかに、そんな呪いがあった。

幼いころ大人から尋ねられた夢はキラキラとしていて、偉大で素晴らしいものである必要があったのに、いつのまにか「現実的に考えなさい」「実力を考えなさい」と言われるようになっていった。

そしてその反面、今でもその呪いによって、人間として地に足をつけて立てている部分も確かにある。一定の生活を維持する努力をすることで、心のどこかが安心をする。「ああ私は今、真っ当に生きられている」と。

 

映画「梅切らぬバカ」を観た。

SNSで信頼のおける映画好きたちが「良かった」としみじみ発言をしていて、目には止まっていた。自閉症の中年息子を中心とした、その周りで「生きる」ひとたちの話だった。

映画『梅切らぬバカ』オフィシャルサイト 11/12公開

特に何も起きないし、なんの解決もしない。白黒なんてつかないし、劇的な変化などなにもなかった。でも、それがすごく「そういうもの」だった。

 

「何も起きない」とは「派手な大事件が起きない」という意味で、本当になにも起きないわけではない。予めある程度予想のできる範疇で、何かしらは色々と起きる。「まぁ、そうなるよね」である。そしてそれらは根本的な改善をなにもされずにうやむやなままで終わる。腰が痛いから湿布を貼ってやり過ごし、特に根本的な治療をしないようなものだ。

 

世の中って「そういうもん」なんだと思う。

白黒なんてつかない。世の中のほとんどがグレーで「いい塩梅」を模索してやり過ごすもの、なんだと思う。

 

劇中で母親役の加賀まりこさんが「お互い様だろ?」と諭すセリフがある。元来人間って「そういうもん」なんですよね。多かれ少なかれ迷惑をかけながら生きているし、それを謝りながら生きている。そして忘れがちで、実はいちばん大切なことが「許されているからにはこちら側も許す必要がある」ということだ。

 

劇中の「生活しているひとたち」はそれぞれがきちんと必死で生きていて、暮らしていて、それらはどれも正しくて、けれどどこかが欠損している。私は映画を観た側なので当然俯瞰しているのだが、きっとそれぞれの立場に置かれたら、なんとも煮え切らない態度を取るんだと思う。だって「自分が生きていくこと」ってきっと「周りの人たちと生きていくこと」だ。

 

私の毎日も、派手な大事件なんて今のところ起きていない。でも毎日に必死で、食らいついていて、でも特に表彰されるような素晴らしいことなんてなにもできていない。でも、それでも生きている。周りの人たちに迷惑をかけて、そしてかけられて、時にはぷりぷり怒ったり、めそめそと泣いたりもして、でも熱りが冷めると「まあいいか」なんて記憶は彼方へと消しながら、それでも毎日を生きている。なんの解決もせず、白黒もつけず、でもどこかで納得して、受け流して生きている。そして今もこうしてもっともらしい言葉を並べて「それが生きるってことだと思う」と自分を説得しようとしている。

 

物語の軸となっている、自閉症の中年男性「ちゅうさん」と、言葉の分からない時に乱暴な動物である「馬」の対比はとても心苦しい部分ではある。けれどそこから周辺の人々の「足りない部分」が浮き彫りになっていく。

 

私は自閉症のことを特に可哀想なことにだとか、美談だとかにせずに、ひとつの特性として描いていたところが個人的にこの作品をとても受け入れやすかった。「酔っ払ったら記憶を無くす」とか「神経質で声が大きい」とか「事なかれ主義で何も言えない」とか、そういう性格のように「誰しもがみんな何かしら持ってますよね、そういう部分」という自然な特質の話として描いているようで、スッと受け入れられた。なんなら、私はその世界線で生きてすらいた。

 

答えは、与えられなかった。

でもそれは、救いがないということではなかった。

答えなんて無くても、生きていけるということだった。

 

私はそれでも生きていくし、それは同時に、周囲の人たちと生きていくということだ。

白黒なんてつかない、許して許されて生きていることを、改めて認識しながら、明日からも生きて行くしかないのです。許してもらって生きるからには、許しながら生きていくのです。