私の夏拐い 〜【概念としての夏】と【私のなかの川﨑皇輝】の備忘録〜
ついに夏が終わる。
気温35度を超えた8月頭から、まるまる1ヶ月文字通り瀕死で、時折泣きながらそうめんを食べていた。ほぼ毎年恒例の夏バテである。今年は特にひどく、ほぼそうめんと冷製スープと野菜ジュースとアイスで生きていた。いつもなら幸せの絶頂なのに、ご飯が炊ける匂いが気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がなかった。倒れなくてよかった。ご心配をおかけしたみなさん、ありがとうございました。ひとまず今年の私は無事です。今年の私は阪急電車で倒れていません。
憎き灼熱地獄から解放され、9月を数日すぎるとあれよあれよと言う間に、ハンバーグも炊き込みご飯も食べられるようになった。イオンのお惣菜コーナーで気持ち悪くなっていたレベルだったのがもはや懐かしい。健康診断まではこのウェイトをキープしたいものだがどうなることやら。
けれど記憶のなかにある【概念としての夏】はとても好きだ。【体感としての夏】は基本的に夏バテで溶けているけれど、溶けているなかでも感じ取ってきた【概念】の部分においては、私は夏がとても好きだ。
そしてブログを書くに至るのはここに帰着するからである。
「私の中の川﨑皇輝」は「概念としての夏」に限りなく近い。青々と爽やかであるのに、深くてしっとりしている。
— たんたかたんぬ (@_shokochannel) 2020年9月14日
そもそも私の言う【概念としての夏】は【二面性】が鍵で、昼夜それぞれが持つ表情の違い両方があっての夏、という認識。
筆にたっぷり水分を含ませて伸ばした水彩絵の具みたいな、揺らぎと主張が混在した青い空。ちょっぴり砂っぽさが残る足にビタミンカラーのペディキュア。縁側に座って、カラカラに渇いた喉を通る真っ白なカルピス、グラスにはびっしりと水滴、カランと鳴る氷の音にびっくりする近所の猫。
— たんたかたんぬ (@_shokochannel) 2020年9月14日
汗ばんだ髪をスッと通り抜ける夜風、網戸越しに聞こえる野球中継と風鈴の音。ひんやりとした神社の境内は昼に見るより深い緑色に変わる。地面から伝わる昼間の熱気、ひらりと翻る薄い生地のワンピース。もう充分暗いから見えないのに、隣に並ぶのが恥ずかしくて、目深に被り続ける麦わら帽子。
— たんたかたんぬ (@_shokochannel) 2020年9月14日
私の中の「夏の昼」と「夏の夜」のイメージは140字以内だとこんな感じ。
夏って、大きな声でなにか叫びたくなるのに、本当に言いたいことが何かに飲まれていく感覚になる。
そんな【概念としての夏】と【私のなかの川﨑皇輝】はとても近い。前述したツイートのとおりだし、彼と対峙しようとすると何が本当に伝えたいことなのか、彼自身に飲み込まれて言葉に詰まるような感覚になる。先日ファンレターを書くだけで数日間の構想を練ったし、好きなところの列挙をすると、送るのを躊躇する内容だったし、見かねた友人に「考えすぎだよ(笑)」と励まされるし、実に大変だった。
夏は熱に浮かされて自分じゃない感覚にだってなる。抱えた熱の発生源が太陽なのか、自分なのか、それとも隣にいるその人なのか。分からないのに、信じたくなってしまう不思議な魔力がある。
そんな人に初めて「しんどい」と不意に吐露されたとき、どうしようもなく泣きたくなった。
朝一番の忙しないコンビニのラックのいちばん前や、店頭の目立つ位置に平積みされた雑誌に堂々と印字された彼の名前を誇らしくなぞる。ドキドキしながら開いた掲載ページと対面する。そんななかでの不意の本心の吐露だった。
私は本当につい最近その熱を纏ったので、過去のことはまだまだ表面すら知らない。だからその本心を開示されたとき、スッと全身を覆っていた熱が消え、その代わり熱の発生源が確かに自分の内にあるものだと気づくことになった。
「夏が終わるのか」と実感する。私の肩を抱く寂しさをそっと払う。大丈夫、熱は確かに私が持っている。