そして僕を手放さずにいて

アイドルオタクのときめき備忘録

久しぶりに、深呼吸をした。〜映画「あのこは貴族」を観て〜

ひんやりとした4月の夜の空気を、肺いっぱいに取り込んで、私は一駅分、歩くことにした。どうしても、自分の足で歩きたかったから。

 

映画を観た。とても丁寧で繊細な映画だった。

たぶんSNSで流れてきたんだと思う。なんだか映画館に行きたい気分だな…と思ったときにふと「あのこは貴族」という印象的なタイトルと、主演のおふたりの姿を思い出した。仕事終わりに電車に飛び乗って、最寄駅を通過して映画館に向かった。

映画『あのこは貴族』公式サイト

よくある「富裕層と低所得層」の話でも「アラサー女性の結婚への圧」の話でもなかった。確かにそれはかなり色濃く描かれているのだけど「よくある描かれ方」ではなかった。決して描いていなかった。体感を映していたんだと私は思った。

 

女性たちが生きていくなかでの繊細で柔らかな部分を、なぞるような、撫でるような作品で、出てくる全ての女性たちの生き方を否定しない、そんな作品だった。

そう思い、帰宅して改めて公式ページから監督のコメントを読んでみて、更に深く沁み入った。

 

『あのこは貴族』は出自も生きる階層も違う二人の女性が、これまでどんな風に生きてきて、これからの日本をどう生きるのかを描いた作品です。多くの選択肢が用意されているわけでもなく、器用にベストな選択ができるわけでもない。それでも自分の足で立ち、生きていく。

 

少しずつ、少しずつ。生き方の多様性は広がっていっているとは思う。でも多様性は多くの迷いも生む。否定されることもあるし肯定されることもある。でもそもそも、肯定する権利など誰も持ち合わせていないはずだと私は思う。誰が肯定せずとも確かに「生きている」のだから。多様性のなかで生きていく私たちは「否定か肯定か」ではなく「どう共存していくのか」を考えていかなくてはならないと、そう、思うのです。

 

「こういう人と結婚したら安心」「いつまでも夢ばかり見て、現実を見なさい」「早くしないと、子どもを産めない身体になってしまう」「女の子なんだから炊事くらいできないと恥ずかしい」などと幼い頃から少しずつ、気づかないうちに身に纏っていたたくさんの呪いたちを「素肌にセーターを着るような呪い」と私は呼んでいる。あたたかいような気もするし、風が通って冷えるような気もする。あちこちがチクチクと居心地が悪く、薄着で心許ない気もする。気になってしまうと、もう戻れないのだ。

 

 

どこで、どう生きていくの?と尋ねられているような気がした。優しい向かい風のなか、帰路についた。「全部私のもの」で詰め込まれた、自分の部屋に向かって、歩みを進めた。